武道の心得
 

 下界人も、いろいろなきっかけがあり、その道にのめりこんでいった者や最後まで武の道にどっぷりつかり、ー生を終わられた方もおられる事だろう。
 わしは、空手とヌンチャクにはまった。はじめは空手と出会いその格好良さに心が動いた。そして強くなりたいと空手を身につけ、いろいろな人と話した。今まで話もできなかった成績優秀な連中とも、話しつき合ってみたいという気持ちが、わしの心を先行させていた。武の心を追求する気持ちなど全くなかった。下界のみなさんもそうであろう。中学生になりたての頃は己の個性も強いものだ。簡単に言ってしまうと、中学校のリーダーを狙う訳だ。下界人よ、わかるだろう。見に覚えがあるだろう。「そう言えばある、ある」と言っている下界人のかすかな声が、わしの耳に入ってきているぞ!!
 武道にはまる以上は、ここぞという時の集中力、パワー、技を身に付けようと、決意するようになる。どうすればよいのか、考えたものよ。だがな、考えても考えても、どうしても道が出てこない。わしはいったんこの問題を頭から離すことにして、ただただ、野山を走った。そうしているうちに道の扉が開いてきていた。人間、悩むときは進歩する前ぶれなのだ!そうかこの森の全体が生きた教科書なのだ!この木が、竹が己を磨いてくれる先生なのだ!木、竹を利用して 己自身の知恵とエ夫で、森に愛を持って鍛錬を続けるという”野性的武道”といえるだろう。”野性的武道”は、いかなることが起きても負けない強い精神力、誰にもできない技が身に付くのだ。
 訓練でわしは独自の工夫もした。下半身を早く動かす事、例えば、相手より早く蹴りだしたり、相手より先に己の体を動かせるようにするための工夫だ。靴に鉛をしこんだのだ。鉄の下駄なんて漫画にあったと思うが、漫画みたいなことをやったのだな。その靴を履いて山を駈けあがったり、下ったり。そして、竹に蹴りを入れたりした。思っていた以上に、下半身が軽くなっているのを感じた。
 予断だが野球選手が、本番前にバットを二本合わせて振っているのをみかけるが、あれはおそらくバットを軽く振るための工夫なのだな。わしは、同じようなことを特に意図したわけでなくやっていたわけだ。
 ある日、外国人が二人やってきた。一人のイギリス人男性が、「おお蹴りが早い」と日本語で言ったのが聞こえた。わしの自己満足だけではなかったのだ。鉛靴鍛錬は間違いなく効果があったのだ!
 ちなみに、鉛靴だが、決して始めから重たくしてはいかん。何事も無理すると壊れるのよ‥‥。はじめから重くすると関節や筋肉を傷めやすくする。また私の独り言だが、この鉛靴がどうしても欲しい者には作ってあげることもある。
 さて話を武道の本筋に戻そうて。
「武道は己の為にあらず」。この言葉の意味がわかるのに、わしは、かなりの時間を要した。風も通り過ぎた。人も色々と通り過ぎていった。そして、半世紀くらいかかって神が宿った。
「武道は戦わずして勝つ」と天からメッセージが下された。答えは己が修行の中から
勝ち取るのじや。
 体中に傷を付け、あちらこちらと骨折、肉離れをおこした。この痛みなんとかならんか!と叫びたいこともたびたびあった。わが身を削ることで痛みとやらがわかる。外傷の痛みだけでなく、心の痛みもわかるようになる。そして何十年かけて鍛えたこの拳で、この蹴りで相手を倒すとどのようになるのか!己の痛みを知り、人の痛みも己の痛みと同じ痛みとして感じ取るようになれた。この頃から、「戦わずして勝つ」という天の声の少々判ってきたように思っている。
 武道とは人に勝つものではない。己に勝つ事である。そのことを頭にたたきこんで武道に精進されたし。力で相手を変えさせるのでなく、己が変わることで相手の動きを止める。
己の心の武器で相手は倒れるし感化される。
 余談だが、下界の青少年たちの昨今の事件は、幼いころに野山で遊び、スポーツ、武道で痛い思いをしなかった事が原因だと思うぞ。子供は己自身、痛い思いをしないといかんのだ。武道、スポーツ、野山での体験を大人自ら手本を示す。このことが、青少年の犯罪を防ぐことを忘れてはなるまいぞ!!

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