仙人の武道家時代のお話
 

 下界のみなさんは、おのれの選んだ道を歩んでいる方のおろうし、逆に、好きでもないのにその道に入ってしまった人、また、人の薦めでその道で何となく過ごすことになった御仁・・・、人によって様々であろうな。
 私のうちは母の話によるとその昔は、鍋島藩の武士だった、とのことだ。なるほど、それでどうかは知らんが、小さい頃から野山に行き「チャンバラごっこ」をするのが好きだった。チャンバラの刀に使う木は、細かい枝があったり、曲がっていたり、すぐ折れてしまうものは向かない。一番目につきやすいのがハゼの木だった。その木はまっすぐに伸びているし枝もない。すぐに使用できたのだ。
 しかしだな、きれいな花にはトゲがある。甘い話には落とし穴がある・・・。まさかこの木が人の顔の形を変えてしまう、得体の知れぬ作用を持っているなど知るよしもなかった。
 朝起きて姉に「おまえハゼの木に触ったな」と言われた。我ながらびっくりするほどの変化が顔に起きていた。ハゼの木は漆だったのだ。つまり被れたのである。その痒いのなんって、もうたまらんかった。この時の痒さは、数十年経った今でもワシの頭の中に鮮明に残っておる。
 中学の頃だったかな、空手の練習をしている3つ年上の男性に出会った。この出会い以来、”チャンバラ道”から空手道に転身したのでござる。手作りの道場を作り独自の練習を重ねていったのである。そして、時は経ちわしも社会人になっていた。
 町道場では飽きたらず、誰よりも強くなりたいわしは、近くにある大きな公園で、桜の木を相手に日々鍛練をしていた。ある日、鍛錬中のわしのところに向かってくる者がいた。50歳くらいの男性が、なにやら物を担いできてわしの前に立ち止まり、
「桜の木を蹴っていては木が折れてしまうから」
と、担いできた物をドスンと地面に置いた。それは鉄パイプで作ったサンドバックを吊り上げる物だった。  
「これを使いなさい」
と一言いって帰られた。わしはてっきり怒られるかと思っていたのである。その人は公園の管理者であった。本当に嬉しかったぞ。
 この頃、わしの生活に変化が起きていた。妻と別れたのである。わしには二人の子供がいて、わしが引き取って育てていた。
 ある日、たまたま見ていた雑誌にプロ空手の選手の顔写真が載っていたのだな。この記事がわしの人生を決めたのである。わしはプロ空手の道へ入る決心をする。2,3日分の食事代を子供たちに渡して、福岡にあるプロ空手のジムへと向かった。ジムで大塚会長という人物と会った。色々話をした。プロ空手に出会ってからのわしの思いのたけをぶつけた。その熱意にほだされたのか入門させて頂けることになり一泊してうちに帰った。
 ところが、家では大変な事が起きていた。わしが子供を置いて出て行った事を知った妻が留守中にきたのだ。ろくに話もしないで子供たちを連れて行ってしまったのだ。
 わしわしなりに、二人の子供に愛情を注いだつもりだった。遠足の時には愛情弁当をだな、よくこしらえてやったものだ。子供たちにプロ空手の話をしたときには、後押しもしてくれた。子供たちの事を書くと今でも涙が出てきてしまう。あまりこのことには触れたくないのが本音でござるが、10年間山にこもり地元の子供たちのために青少年育成としながら、罪を償う活動を実行しているからこそ、昔の事を書く事ができるのでござる。
 子供と別れた後、本格的にプロ空手家としての道を歩んでいったが、プロの世界はわしの考えていたような甘いモノではなかった。試合中に骨折してしまったのである。相手の蹴りをまともに手で受け止めたその時、わしの肘から手首の間がしなるのを感じた。そしてまた蹴りが来て、同じ受け方をしてしまったのだ。試合が終わったとたんに痛みが出てきた。すぐにリングドクターに診てもらった。すると、「折れている」と言われたのだ。甘木市の病院に1年間も入院する羽目になった。
 後に聞いた話だが、相手の選手は、これがなんと妻の実家の福島という島の出身だった。これを聞いたときは正直驚いたぞ。
 退院後わしは、かのブルース・リーが映画でよく使用していたヌンチャクに力を入れだしていた。何故かというと普通の試合ばかりではファンの方々も物足りないであろうと思ったからだ。リングの上で武器と武器の試合をやってみる。これなら見ているファンも満足するに違いないワー、と。日本初の企画を思いついたのだ。
 そして当時のヌンチャクの使い手とされる人物を捜し出すことができ、その方に事のいきさつを話したところ、極意を伝授してくれる事となったのでござる。
 ヌンチャクの使い手は他にもいる。まず、相手の上を行く事、相手を上回り余裕のある流れで試合ができるかを考え、ヌンチャクの動きを”悟る”事が必要だと考えたのだ。それからは、来る日も来る日も、ひたすらに鍛錬に明け暮れたのだ。体のあちらこちらにヌンチャクが当たり、それはたまったモノではなかったが、痛みなど気にしていては前に進む事はできぬ、と自分に言い聞かせ鍛錬を続けていくうちに、ヌンチャクの持つ魅力にはまっていったのだ。
何ヶ月かが過ぎたある日、そろそろプロ空手ジムの会長に、わしの企画を聞かせようと思い伝えたところ「それはいいアイデアだ」とすぐにOKがでた。しかし、その後が大変だった。「宣伝」である。街を宣伝車でテープを流しながらまわるのだ。
 それと同時に生活費を稼ぐバイトもしていた。そんなとき、飛び込みで入ってきた仕事が、夜のクラブでのステージショーだった。しかも、ヌンチャクを使ってのアクションショー。願ってもない仕事が入ってきたのでござる。「良かった。これで米が買える」とそろばんをはじく。そしてショーの当日がやってきた。
当日、わしのアシスタントをする予定の女性が、ちょっとしたアクシデントで来られなくなり、急遽、その店の男性スタッフを使わせていただく事になったが、アクシデントとは続くものなのか、大失敗をやらかしてしまったのだ。その男性スタッフの頭にヌンチャクがまともに当たってしまった。
「しまった・・・やってしまった」
客席は、シー・・・・・ン。
 その男性はその場に跪き両手で頭を押さえている。店のスタッフの氷とタオルを持ってきてもらい、わしはうずくまっている男性の頭に巻き付け、ステージの横に連れて行った。この時心の中では、
「大失敗したままで終わらせるわけにはいかん。このままでは福岡に居られなくなるばかりか、試合すらできなくなってしまうではないか」
という気持ちになっていた。そこで、すぐにステージに戻りお客さんに頭を下げた。
「申し訳ございませんが、私にチャンスを与えてください。たった今、失敗した技よりさらに難しい技をやりたいと思いますので」
 その時、客席のライトが付き明るくなった。見れば、丸坊主で黒いスーツの姿の人々ばかり。
「このお客さんは・・・」
と思ったが、ここが勝負どころだと気を引き締めた。その時、50歳くらいの男性が名乗りを上げてこられた。
「助かったー」
と思った。というのは、先ほどの男性はふさふさした髪の毛だったから的が絞りづらかった。今度の人は丸坊主なので的がよく見える。
 今度の的先は先ほどよりもえらく小さいドングリだった。
「もしも、今度失敗したら、それこそただではすまんだろう」
という雑念も心をよぎる。しかし、わしは米粒を打ち落とす技を習得している。今日までの鍛錬を信じ雑念を振り払って打ち込んだ。
「エイッ〜」
ゴチッと音がして、目に見えないくらいのスピードで飛んでいったドングリは粉々になっていた。
「やった。成功だ!」
少ししてから客席がざわめきだし、拍手が聞こえてきた。こうして、わしの命が繋がった訳でござる。
 その後、中州の街に隼源史の話が広まったとか(笑)。
 この件以来、わしは本番に強い武道家だと、己に言い聞かせている。そして、難しい技を打つ場合には、練習を積んだアシスタント以外使わないようにした(笑)。
 さて、肝心のプロ空手の試合の方はというと、もう大成功で終わった。
 その後、プロ空手は人気が落ちて消滅した。しかし、わしはヌンチャク道にすっかりはまってしまっていた。プロ空手から離れた後は、関東から中部を中心に、森にこもり修行、鍛錬を続け、最終的には愛知県豊田市の森に落ち着いた。10年目を迎え円明流ヌンチャク道を確率、立ち上げた訳でござる。

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